Volkswagen Service® Library Ver.24
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4本の煙突がそびえ立つウォルフスブルクの本社工場1947年当時のビートル生産ラインもっと知りたい フォルクスワーゲン 豆知識 フォルクスワーゲン本社があるドイツ・ウォルフスブルクには、4本の煙突がシンボルの本社工場や自動車のテーマパーク「アウトシュタット」があります。フォルクスワーゲンの代表的な車種であるビートルは、3/4世紀ほど前にこの工場で生産が開始されました。 ご存知の通りフェルディナント・ポルシェこそがビートルの生みの親。フォルクスワーゲンの歴史を語るうえで、欠くことのできない人であるのはいうまでもありません。1875年、当時オーストリア ハンガリー帝国の支配下にあったボヘミア(現在のチェコ)に生まれたポルシェは、勉強のためにウィーンに行き、その後、自動車開発の道に進みます。ローナ−社では電気自動車の「ローナ− ポルシェ」を開発し一躍有名に。その後、オーストリア ハンガリー帝国のアウストロ ダイムラー社、ドイツのダイムラー モトーレン社などを経て1931年に独立。55歳のときのことでした。 ポルシェはアウディの前身であるアウトウニオンのためにレーシングカーを設計する一方、庶民のための小型車をつくりたいと常々考えていました。その頃、ドイツで持ち上がったのが「国民車構想」でした。 国民車は、アウトバーンの整備により道路環境が整いつつあったドイツで、それまで車に縁のなかった国民が誰でも所有できる小型車をつくろうというプロジェクト。大人2人と子供3人が乗車できる居住性を備え、空冷エンジンを搭載し、最高速は100km/h以上で100km走行あたりの燃料消費率が7L以下という車を安価で提供することが条件でした。当時の自動車メーカーが実現困難と受け止めるなか、ポルシェは夢に実現のために国民車の開発に名乗りを上げたのです。そして、1934年から4年の歳月を費やし、国民車のプロトタイプを完成させました。 そして、1937年にはフォルクスワーゲン社の前身であるドイツ国民車準備有限会社(略称GEZUVOR)が設立され、ウォルフスブルクでの生産が決まりましたが、生産開始目前の1939年に第二次世界大戦が開戦。実際にウォルフスブルクの工場でビートルが生産され始めたのは1945年になってからのことでした。 その後、このビートルはドイツはもちろんのこと、ヨーロッパ諸国や北米市場で受け入れられ、1950年代には年間10万台を生産するフォルクスワーゲンの代表作となりました。日本でも「かぶとむし」の愛称で親しまれ、長いあいだ輸入車のトップセラーとなりました。 「TYPE 1」というのが、このビートルの正式名称です。また “ワーゲンバス”としていまも人気を集めているのが「TYPE 2」です。ビートルのフロアにバスのような箱形ボディを載せたTYPE 2には、乗用モデルのマイクロバスや商用のコンビ、そして、キャンパーなどさまざまなバリエーションがあり、幅広い層から支持を集めることになります。 他にも、ドイツのコーチビルダーであるカルマン社が手がけたクーペ/コンバーチブルモデルの「カルマンギア」や、同じカルマン社が生産を担当した「ビートルカブリオレ」などによって、人々のカーライフに彩りを添えていったのです。 その一方で、1960年代には空冷エンジンをリヤに搭載し後輪を駆動するというビートルは、新しい時代のニーズに応えられなくなり、新たな国民車の開発がスタートすることになります。0242ビートル誕生の秘密

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